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昔の吾妻通り_edited.jpg

吾妻神社 周辺案内

吾妻表通り 大正中頃 撮影

周辺案内: チーム
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昭和4年の鳥観図

昭和4年1月写生の千葉縣木更津町から吾妻周辺の鳥観図です。平等院や不動堂が描かれており、江戸道と言われている道が蓮畑に続いています。今でも当時のお店が営んでおります。

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「指さし道標」 江戸道

神社より南へ50~60mくらいのところに、東に指をさして「江戸道」と書いてある道標がある。これは、明治の前まで陸路江戸に行く街道の道標である。昔は、この道を通り長須賀にて千葉街道にあがる、千葉へ行く幹線道路だった。
その昔は青々とした田んぼや黄金色の田んぼの間を平馬車が通る道があり、少し行くと「橋戸」という橋があり、そこを北へ向かった川の岸には、昔の街道の松並木が何本か残っていた。おそらく、昔の旅人がこの木の下で汗を拭き、脚を休め、食事をしたり、景色を眺めたりしていただろう、と思われます。

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「指さし道標」 新聞の切り取り

珍しい「指さし道標」 
木更津港の近く、吾妻神社の参道に珍しい石柱がある。「指さし道標」と呼ばれ、人さし指で 方向を示す浮き彫りが刻まれているのがユニークだ。
神社正面に向かう南側から読むと、左手に「吾妻神社」と記され、指が正面の神社を指し示す。裏側には「安政五戊午」(1858年)、「上総国」などと記され、右手に「江戸」とあり、寄進 したと思われる「東京小網三 艾問屋釜屋治左江門建之」 の名が入る。幕末に既に「東京」 と書いてあるのが興味を引く。 
この小さな神社の境内には庚申塔が集められた場所があり、道案内の象徴でもあった猿がしゃがんだ姿が3面に彫られた塔の文字は、「従是東者(これよりひがしは) 江戸かいとう(街道)」と読める。延宝8年(1680年) とあり、県内の年代の分かる道標では、東庄町の諏訪神社に残る「此方(このかた) ちゃうしみち (銚子道)」と書かれた延宝6年の供養塔に次いで古いとされる。

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浅野様

航空隊の入口(吾妻保育園)に「浅野様」と書いてある小さな立て札が立っていて、木々の繁っている奥に祠があり、近所の人がよく掃除をしている。戦争中までは、赤い旗が立ち並び、花柳界の女の人がよくお参りに来ていた。幕末、この地方は徳川側だったので官軍との戦いがあった。義軍の大将であった浅野さんは強かったが、横田で戦死。その首級は木更津に運ばれ、吾妻神社境内の路傍に晒された。村人は、その哀れさを偲び、道のほとりに小さな石を立て、お線香を上げて弔った。いつの間にか「浅野様」と呼ばれ、順をかけると叶ったという民間信仰の対象になったと言われている。大正時代に、本殿に向かって右側の位置に墓が建てられた。それが浅野作造源頼房の墓である。

外部リンク(木更津最後の義軍「貫義隊」浅野作造頼房)

平等院鳳凰堂_edited.jpg

海上山平等院(真言宗豊山派)

海上山平等院は吾妻のお寺で、酒で有名な小原庄助さんの墓と言われる、(福島県で知らない人はいないと思われます。)徳利に盃の被った墓石が建っていて、そこには次の辞世の句がある。

「世の中の酒は諸白みは徳利焼そばを離れますまい」

またすぐそばには、浅野さんの首を埋めた、浅野作造源頼房の墓があります。​

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