本殿正面に吾妻神社と書かれた欄間額が掛かっておりますが、この額は五摂家一条家の方が書かれたものです。額の左に縦書きで「公爵 一條 實孝」(さねたか)と書かれております。ウキペディアによると生1880年〜没1959年(明治13年から昭和34年)と記されており、この書は関東大震災後に改築された際に頂いたものと聞きましたので間違いなく公爵實孝によるもの。五摂家とは、 元は中臣鎌足(藤原鎌足)から続く一族が鎌倉時代に5つに分かれたお家柄です。(近衛・一条・九条・鷹司・二条)
大化の改新の中心人物である中臣鎌足の子孫が書かれた欄間額が、ここ吾妻にあります。
本殿内、正面左側に飾ってある額縁の写真の紹介です。
関東大震災で本殿が崩壊してしまい、大正15年に再建築された時に海軍が祝ってくれた時の写真です。
海軍中将 佐藤皐蔵氏より奉納していただきました写真です。
・撮影日は、大正15年9月16日撮影
・昭和2年4月5日 海軍中将 佐藤皐蔵(さとう こうぞう)
最後に花押(かおう)が書かれています。※当時のサイン
ウキペディアによりますと
・大正9年(1920年)中将となる
・大正11年(1922年)最後の任地の大湊要港部司令官を終えて待命
・大正12年(1923年)予備役編入
その後、ここ吾妻神社にて写真を撮影したと思われます。
木更津に航空隊が作られ始めたのは昭和10年頃ですから、なぜ海軍中将が?という疑問が残る写真です。
漁業の町として発展してきた旧吾妻村としての海の守り神として、七福神とともに祀られており、海から見えるように参道の右側に位置しております。
隣りの町内会の”新宿船溜まり”にある「金毘羅様」では、毎年1月20日に浦祭りが漁業組合で執り行われおります。
文久3年8月1日 徳行明鐘(とくぎょうめいしょう)俗名市次郎という修験者が富士山麓で三十三度の大願成就を記念して建立したと言われています。富士山の火山岩を積み上げ、頂上に富士本宮の祭神 木花咲也姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)と邇邇芸命(ニニギノミコト)と磐長姫命(イワナガヒメノミコト)の石碑があります。
むかし、富士塚からは霊峰富士がさらに美しく裾の走水も手に取るように眺められたということでした。平成になり、県道拡張に合わせて今の場所に移設されました。
古事記 天孫降臨神話
「木花之佐久夜毘売と石長比売」
天照大御神が葦原中国平定が終わったので降臨して葦原中国を収めるよう命じられた邇邇藝命は笠沙の岬で美しい娘に逢った。娘は大山津見神の子で名を神阿多都比売、別名を木花之佐久夜毘売といった。邇邇藝命が求婚すると父に訊くようにと言われた。そこで父である大山津見神に尋ねると大変喜び、姉の石長比売とともに差し出した。しかし、石長比売はとても醜かったので、邇邇藝命は石長比売を送り返し、木花之佐久夜毘売だけと結婚した。
大山津見神は「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、石長比売を妻にすれば天津神の御子(邇邇藝命)の命は岩のように永遠のものとなり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約(うけひ)をしたからである。木花之佐久夜毘賣だけと結婚したので、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と言った。それで、現在でも天津神の御子の寿命は長くないのである。
昔、この場所に吾妻の森があり、森の中心に水がきれいに澄んだ形の良い池がありました。日本武尊や従者たちはその池の水で喉を潤し、水面を鏡の代わりにし、疲れ果てた己の姿を見て、身なりを整えたと言われています。 また、その池には弟橘媛が使った鏡を沈めた所とも伝えられ以来この池のことを「鏡ヶ池」と言われています。現在の鏡ヶ池は古い池を修復したものです。
江戸時代末期一八六七年に、二十五歳前後の浅野作造頼房が徳川恩顧の地である木更津を中心に同志を募って貫義隊の旗をあげ、官軍と戦いました。剣の腕が立つ浅野でしたが、最後は横田の寺で白兵戦の末、撃たれ亡くなりました。 (同年六月四日)
その後、官軍は吾妻神社近くに浅野を晒しました。
吾妻の村人達は浅野の死を哀れみ、小さな石を立ててささやかに供養をし、やがて流行り神「浅野さま」として信仰されました。
令和六年十二月十五日に境内に移設しました。